演劇仲間の1人ががんで亡くなり、別の1人は半身不随になった…そんな紹介も「ほとんど意味がない」スリリングな体験!
2024/01/23

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 帯に「芥川賞受賞作『しんせかい』に連なる驚異の新天地、反自伝小説!」とあるが、読み終わると〈半自伝〉ではなくて〈反自伝〉であることの意味がすとんと胸に落ちてくる。小説を書きながら劇団「FICTION」を率いる〈わたし〉は、演劇仲間と過ごしてきた日々を回想しつつ、現在――仲間の1人ががんで亡くなり、また別の1人は半身不随になった――を思索する。

 というふうにいわゆる〈あらすじ〉をまとめてみることも、登場人物や人物相関を具体的に紹介することも、ほとんど意味がない。そこがこの読書体験のスリリングなところで、そもそも私が山下澄人の小説に惹かれてきたのも、内容以上にその文体やスタイルのためだった。

 ひとつの章のなかで、ときには改行さえなしに突然時間が飛ぶし、現在と過去とがほぼ同じ時制で書かれる。だからもちろん、読みづらい。読みづらいが、過去の記憶って別に〈今〉とちがう箱に入っているわけじゃなく、体感としてはたしかにこんな感じだ。また、本書では「こんな場面はなかった。しかしあった」という具合で〈わたし〉にとっての真実はひとつではない。

 そういう意味で、何が起きたかを言葉によって確定させ、時系列を伝わりやすく整理した〈自伝小説〉とは真逆を向いた試みなのだ。

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〈今〉は記憶と混ざりあいながら存在するし、〈わたし〉のなかには死者を含む別のひとの視点が混ざっている。「わかる」という表面的な安心感を効率よく求めるあまり、普段の私たちが忘れてしまっているそのことを、この不思議な文体はとてもなまなましく思い出させてくれる。

 自在に跳ねる奔放な改行のリズムに加え、本作ではカギカッコがきちんと閉じられず〈「〉だけで続いていく会話がある。〈」〉で終わらない声。でも考えてみると、人間の声って本来はカギカッコで区切って始まりと終わりを示せるようなものじゃないんじゃないか。そんな気もしてくるから面白い。書かれた台詞の周辺やつづきに、書かれなかった台詞の濃厚な気配がある。

〈人の見ている中に生きた人間を立たせればそれは必ず何かに見える〉という〈わたし〉の確信にもとづき、演じること、書くこと、生きることがどんどん思索されていく。私たちは〈死者〉が見ているなかに立つ〈俳優〉であり、免れられない死の〈準備〉としての〈演技〉をしているというのだ。私は死ぬ。あなたも死ぬ。その日まで、人間を本当の意味で「よく見る」ということ。何色に塗ればいいかわからない部分を空白のまま残したセザンヌのように、あるいは生きものの〈本体〉が〈耳と耳の間〉にあると信じたアイヌの人々のように。

 この本は演劇論でも小説論でもあるけれど、究極のところ〈死〉についての一冊だ。最終章「助けになる習慣」の時空の疾走感に酔いながらそう強く思った。

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