「ついカッとなってやった。今は反省している」
よく暴行事件を起こした犯人が供述しますが、ちょっとしたはずみで人生を狂わせてしまう様子は、まさに「魔が差した」としか言いようがありません。
そんな心情は古今東西、そして身分の貴賎を問わないようで、やんごとなき平安貴族たちも「魔が差して」犯行に及んでしまうのでした。
今回は暴力事件を起こして流罪となってしまった藤原實方(ふじわらの さねかた。藤原実方)を紹介。果たして、その動機は何だったのでしょうか。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを【意訳】これほどまでに燃えるような思いを、言わずにいる思いを、あなたは知らないでしょうね。
藤原實方は生年不詳、藤原定時(さだとき)と源雅信女(まさのぶのむすめ)の間に生まれました。
広告の後にも続きます
若いころに父が亡くなったため、叔父である藤原済時(なりとき)に養子入りします。
成長した實方は順調に出世しますが、長徳元年(995年)に暴力事件を起こしたため、陸奥国へ左遷されてしまいました。
そして長徳4年(999年)12月、現地で馬に乗っていた時、突然倒れた馬の下敷きになって亡くなってしまったそうです。享年はおよそ40歳ほどだったと伝わります。
實方墓所は現代の宮城県名取市にありますが、どういう訳か神奈川県横浜市にも實方塚と呼ばれる墓がありました。
現在の實方塚は移転後のものですが、移転前の實方塚にも、實方(に限らず、誰か)が葬られた痕跡は発見できなかったそうです。
なぜ塚が造られたのかは不明ですが、何か現地に縁(ゆかり)があったのか、あるいは実方を慕う方がいたのかも知れませんね。
さて、藤原實方の生涯をたどったところで、いよいよ犯行の瞬間?を見ていきましょう。
『十訓抄(じっきんしょう)』によると、藤原實方と藤原行成(ゆきなり/こうぜい)の間には、こんなやりとりがあったそうです。
大納言行成卿、いまだ殿上人にておはしける時、実方中将、いかなる憤りかありけん、殿上に参り會ひて、いふ事もなくて、行成の冠を打ち落して、小庭になげ捨ててけり。
【意訳】大納言こと藤原行成が、まだ殿上人(てんじょうびと)であったころのこと。藤原實方は何を怒っていたのか、何も言わずいきなり殴りかかり、行成の冠を叩き落として庭先へ投げ捨てたのである。
……何たる暴挙。当時、成人男性が公衆の面前で頭髪を晒すのは大変な恥辱とされていました。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ引用元:http://ent.smt.docomo.ne.jp/article/17038510,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]