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199人が死亡した史上最悪の遭難…「八甲田山雪中行軍」で一体なにが起きていたのか?「睡魔に襲われたように次々と昏倒」「追い詰められたあまりに…」
2024/01/23

 いまから122年前の1902(明治35)年に起きた、八甲田山雪中行軍遭難事件。未曽有の荒天の中でいくつもの人為的なミスが重なったとされる。だが、その責任はほとんど追及されないまま、「無謀な行軍」の悲劇は「天災」として片づけられただけでなく、いくつもの「美談」に転化された。

 その陰で事実は隠蔽され、多くの謎が残された。そこには、近づきつつあった日露戦争に全ての関心を振り向けようとする強い力が働いていた。210人が遭難し、199人が犠牲になった「日本山岳史上最悪」の遭難はどのように伝えられたのか。あるいは伝えられなかったのか――。

 今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「三十一連隊」などで統一する。(全3回の1回目/を読む)

◆◆◆

 事件に関する研究書、ノンフィクションはかなりある。しかし総じて、筆者の見るところ、内容が偏っていたり肝心な点が抜け落ちたりしている印象が強い。

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この遭難事件の問題点はどこにあったのかを押さえながら見ていこう。

 1902年1月17日付の青森県の地元紙・東奥日報は前日16日に行われた陸軍歩兵第五連隊(青森)の軍旗祭(軍旗の拝受を記念した祝賀行事)の模様を記事にしている。

 軍旗祭では津川謙光・連隊長が「大元帥陛下(天皇)に明治12(1879)年本月本日をもって東北の寒地に衛戍(えいじゅ=駐屯)するわが連隊に軍旗を授け」「威武を世界に発揚せんことを期す」とした奉告文を朗読。綱引きや銃剣術の試合、雪合戦などの「余興」が行われた。

 翌18日付同紙の軍旗祭雑観記事では「一記者」が次のように記している。「この雪国の軍隊は、今後いついかなる所にさらに一層の武勇を表すだろうか」。その約1週間後に起こることをまだ誰も知らなかった――。

 歩兵第五連隊は明治7(1874)年、青森県筒井村(現青森市)に創設(編成完結は1878年)され、西南戦争(1877年)から戦歴を重ねた日本陸軍創設以来の古参連隊だった。

 日清戦争(1894~1895年)に勝利した日本は、遼東半島などの割譲を三国干渉によって断念。満洲(中国東北部)をめぐってロシアとの対立を深めていた。

「明治31(1898)年に新設された第八師団(第五連隊の上部組織)は本州最北端の師団として、来たるべきロシアとの戦争において、極寒地での活躍を運命づけられていた」(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)。

 当時は五連隊だけでなく寒冷地の陸軍部隊はこの時期、雪中行軍を行うのが毎年恒例だった。五連隊の軍旗祭を報じた17日付東奥の同じ紙面には、因縁の関係である歩兵第三十一連隊の「20日から10日間の見込み」という雪中行軍計画が短く載っている。

 宮城県の地元紙・河北新報は翌18日付で「各隊とも毎年1月中には雪中行軍があることなれば、本年も今月中、降雪を見計らって行われるだろう」という短信を掲載。歩兵第四連隊(仙台)第二大隊が16~17日に1泊で秋保まで行軍したと伝えている。

 1月26日付東奥は評論で「雪中行軍隊を想ふ(う)」と題し、雪国には他の地域の人々には想像できない苦難があるが「この地に衛戍する軍隊は、むしろそれを研究すべき天職を負うているというべきか」と指摘。

 第八師団所属の三十一連隊と五連隊が雪中行軍に出発済みと記したうえで、「他日、国家に一朝事ある日、わが雪国軍隊が雪中行軍に得た幾多の経験を応用する時があるだろう」と期待を表した。しかし、既にこの時点で五連隊の雪中行軍隊は未曽有の悲惨の中にいた。

 歩兵第五連隊は遭難から約半年後の1902年7月23日付で事件についてまとめた公式記録『遭難始末』を刊行している。

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同書を基にした1963年刊行の『青森市史 別冊(第3) 歩兵第五聯隊雪中行軍遭難六十周年誌』(以下、『六十周年誌』)と合わせて、記述から遭難に至る経過を見よう。

〈【行軍の目的】雪中、青森から田代(現青森市)経由で三本木平野に進出できるかどうかを判断するため、田代に向けて1泊行軍を行う。もし進出できるとすれば、戦時編成1大隊をもって青森屯営から三本木に至る行軍計画と大小行李(こうり=弾薬や食糧の運搬部隊のこと)の特別編成案を立てる〉

 直接的には「仮想敵であるロシアが太平洋岸に上陸し日本鉄道(現東北本線)、陸羽街道が分断された場合の代替路の確保の可否」(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)だった。

〈【予行行軍】田代行軍の難易を試みるため1月18日、第二大隊・神成(文吉)大尉指揮での中隊編成(当時は約140人規模)で田代街道の小峠(現青森市)まで行軍を実施。行きは約4時間、帰りは約2時間で踏破。天気は晴れで積雪は3~5尺(約90~150センチ)。

 この結果、屯営と田代間は1日の行程で、もし悪条件が重なって田代に到達できないとしても、途中で露営(野外でテントを張るなどして寝ること)すれば十分との判断が下された〉

〈【部隊編成】参加人員は将校・見習士官12人、準士官・下士官42人、兵士156人の計210人。第二大隊の各中隊から選抜された兵による4小隊から成る1中隊と特別小隊があり、中隊長は神成大尉。

そこに第二大隊長の山口鋠(しん)少佐と軍医ら大隊本部が加わっていた〉

〈【服装】略装=兵士は小倉(木綿)の服に防寒外套、手袋、藁(わら)靴。昼食と糒(ほしいい=干した米のこと)3食分、餅6個を携行した〉

 1月23日午前6時30分、行軍隊は営庭に集結。神成大尉は小隊長を集めて行軍計画の概略を示した後、全員に命令。午前6時55分、2列縦隊で出発した。「この日は青森での冬季の普通の天候で、最低気温氷点下6度。風雪も激しくなかった」(『遭難始末』)。

 ただ、24日付東奥は、出発済みの三十一連隊の行軍計画は詳しく載せているが、五連隊の出発は報じていない。

 1月25日付東奥には「昨日の大吹雪」の見出しで「一昨夜来の風雪、昨日に至ってもやまず、寒気もまた至って厳しい」とある。天候が激変する中で事態は大きく動いていた。五連隊の異変を最初に報じたのは東京朝日(東朝)のようだ。 1月27日付に短い記事が見える。

『朝日新聞社史 明治編』(1995年)はこの記事を引用して「青森からの通信員の電報が載った。まさかこれが大隊全滅の第一報になるとは誰も思わず、どこかで難を避けているのだろうぐらいに考えられていた」と書いている。

 ただ、不思議なのは、ほぼ同文の記事が28日付河北に載っていることだ。あるいは、元は通信社配信の記事だったのでは、という疑問が生まれる。当時は帝国通信社と電報通信社(現電通)の並立時代だった。

 そして、29日付で東奥は遭難を大々的に報じた。当時の新聞記事らしい感傷的な書き出しで始まる。

 以下第一報となるが、重複するため飛ばして「其(そ)の詳報」の冒頭を、前置きを外して見よう。軍人が「1~2歩動いた」など、首をひねるような点もあるが、後にこの遭難の象徴的な姿として銅像になり、映画でもハイライトとなる生存兵士発見の場面だ。

 記事は後藤伍長の証言による行軍の経過に進むが、ここからは再び、『遭難始末』と『六十周年誌』の記述を要約する。内容は大隊本部から行軍に参加した倉石一大尉ら生存者の証言を基にしている。

〈【1日目(1月23日)】午前7時40分、幸畑村に達し約15分休憩。先頭の小隊に寒地着(かんじき=足が雪に入るのを避けるため、木の枝やつるを輪にして着ける道具)を着けた。

田茂木野東方からは傾斜が急で、行李の動きが困難になり、たびたび行軍を休止して待つようになった。

 11時半、小峠到着。昼食になったが、風雪が強くなり寒気も加わって、携行した米飯は半ば凍結。兵士は手袋のままようやく食べた。行軍を再開して午後4時ごろ、馬立場(現青森市)に到達。田代方面を遠望できたが、後方を進む行李のそりの遅れが甚だしく、2小隊を応援に向かわせるのと同時に、曹長以下15人を設営隊として田代に先発させた〉

 風雪の激しさで行軍は難航したが、まだこのあたりまでは田代到達に大きな不安を感じなかったようだ。しかし、天候はさらに厳しくなる。

〈日没に近かったが月明りを頼りに進み、鳴沢(現青森市)の渓谷に下った。付近は傾斜が非常に急峻のうえ、積雪は胸を没するほどで、進むも止まるも困難は名状し難いほど。特にそりは進む見込みがないため、荷物のほとんどは兵士が担ぐしかなかった。

 そして、先発した設営隊は道に迷って高地を一周し、行軍隊の後ろに付いていた。山口少佐は士官ら3人に田代方面を偵察させたが、進路は険しく通過できないと報告を受けた。さらに風雪が猛烈に襲い、天地が暗くなったため、少佐は到底田代に到着することはできないと判断。午後8時15分、その場で露営する命令を出した〉

 露営も尋常の苦労ではなかった。

〈露営地は風雪を遮る物のない、まばらな低い樹林。円匙(えんぴ=円形のシャベル)などで積雪を8尺(約2.4メートル)掘ったが、地面に届かなかった。各小隊ごとに縦2メートル横5メートル深さ2.5メートルの雪壕を造り、中に入ったが、覆う物も敷く藁もなく、木の枝を切るにも道具は少ないうえ、積雪で動けず、作業中、手の感覚を失う者が多くて、わずかしか得られなかった。

 苦心して1時間かけてようやく炭火をおこしたが、木炭は1小隊40人にわずか約6貫目(22.5キロ)にすぎず、1つの雪壕で1つの火しかおこせなかった。各人は交互に火に近づいて暖をとり、他の兵士は雪の壁にもたれて休み、仮眠をとった。

 掘った穴の雪の上にかまどを据えて煮炊きをしたが、水は雪を溶かすしかないうえ、かまどの熱が雪を溶かしたため、かまどが傾いてしまった。

 炊事係の下士官らが苦心惨澹(くしんさんたん)のすえ、午前1時ごろになってようやく1食分の生煮えの米飯を配ることができた。餅は石のように凍って、火で温めてわずかに飢えをしのぐ程度。酒も携行していたが、炊飯後の釜で温めたためか、異臭がひどくて飲めなかった〉

 惨澹たる1日が終わったが、行軍隊の本当の苦難はこれからだった。

〈【2日目(1月24日)】風雪は徐々に猛烈になって寒気も加わり、気温は氷点下20度以下に達した。命令で軍歌を合唱して士気を奮い起こし、足踏みで睡魔を追いやり凍傷を防いだ。

最も多く仮眠した者でも1時間半以上にはならなかっただろう。この状態を見て山口少佐は将校、軍医の意見を参考に次のように判断した。

(1)行軍は予定通りでなかったが、目的はおおむね達成した
(2)睡眠、食事は不十分で寒気はさらに増し、このまま何もしなければ凍傷を起こす危険がある
(3)きょうの天気はきのうより風雪、寒気ともに厳しいが、動けないほどではない
(4)夜明け前の出発は日没後の行動に勝る――。

 少佐は5時出発の予定を早め、午前3時に出発して連隊に戻ることを神成大尉に命じた〉

 ここでは神成大尉らが先頭に立って行軍したが、吹雪はますます猛烈になり「四面暗澹(しめんあんたん=暗くてはっきりしない)、行路甚だ難かりき」(『遭難始末』原文のまま)。『青森県史 資料編 近現代2』所収の「陸軍歩兵大尉倉石一遭難陳述書」(防衛省防衛研究所図書館所蔵)にはこの日、「咫尺(しせき)を弁ぜず」(近くのものすら識別できない)」という言葉が繰り返し登場する。

〈一行は鳴沢経由で馬立場に出るつもりだったが、約1時間後、鳴沢渓谷に入り、小さな川にぶつかって進めなくなった。道を間違ったことを知った〉

「不安を感じたら、その一歩を踏み出さない。それが山の危険から身を守る最善の方法である」(岩崎元郎『今そこにある山の危険』)。行軍隊の行動は山のセオリーから外れていた。

 さらに、仕方なく引き返そうとした途中で予想外の事態が起きる。

『遭難始末』はこれしか書いていないが、長南政義「検証 八甲田山雪中行軍遭難事件」(「歴史群像」2022年2月号所収)は明確に指摘している。

「佐藤勝輝特務曹長が田代への道を知っていると述べたため、山口歩兵少佐は軽率にもこの意見を信用し、案内を命じてしまう」

「田代は青森屯営の逆方向である。しかも、出発時に危険が伴うと考え、諦めた地点だ。山口歩兵少佐は追い詰められたあまり、状況判断を誤ったのだ」

 さらに、この時、山口少佐は中隊長の神成大尉に相談せず、独断で決めたといわれる。小説や映画でも「死の彷徨(ほうこう)」に陥る重大な判断ミスとして描かれた。佐藤特務曹長は寒気と疲労から朦朧とした状態だったと思われるが、特務曹長は将校である少尉と下士官の曹長の間の階級で、のちには准尉と呼ばれる。人事係などを務めた中隊の中核で、発言の意味は重かった。

〈風雪はますます激しく、前の者が踏み開いた道は分秒もたたずに痕跡を失って分からなくなった。日の光は暗く、朦朧とした月夜のよう。川岸に沿って鳴沢に出ようと、支流をさかのぼって進路を探し、方向を変えたが、積雪は胸を没し、断崖が諸所に横たわって近づけない。

山腹の斜面をよじ登ったが、行軍の速度は1時間で500~600メートルにすぎなかった。

 ようやく高地に達すると、風雪は狂暴となり、寒気も厳しく、気温は氷点下25度以下と思われた。10メートル先の物も見えず、兵士の士気は挫折したようだった。正午ごろ、高地の小さな丘を通過。

 兵士は銃を背負って両手を腕組みするか外套のポケットに入れるかしているが、手足は凍傷に侵され、ほおとあごのヒゲや眉毛はつららとなり、顔は暗紅色に。睡魔に襲われたように昏倒して路傍に倒れる者が続出するまでになるなど悲惨な状況となった。刻一刻、凍傷患者が増え、叫び声が前後で聞こえるようになった〉

〈山口少佐はじめ将校の多くも凍傷にかかったが、特に終始兵士の救護に当たっていた永井(源吾)軍医が手の指を凍傷に侵され、ついに職務を果たせなくなったのは行軍隊の不幸だった。午後4時ごろ、水野(忠宜)中尉は従卒とともに倒れた。午後5時ごろ、先頭が狭小な窪地にたどり着いて落伍者を収容。

 日没が近くなり、露営地を探したが適地が見つからず、前の窪地に戻って露営を決めた。この日、行軍中、少しでも皮膚を露出すれば凍傷にかからない者はなかった。特に手の指の自由を失った者は、人の手を借りなければ(軍衣袴=ズボン=のボタンが外せないため)放尿ができず、その時間がなくてそのまま放尿した者もあった。

 行李運搬の兵は負担に耐えられず、荷を下ろすか行李とともに倒れ、行軍についてこられた兵はわずかに5~6人。

人員を点検すると、実に総員の4分の1を失っていた〉

 水野中尉は紀伊新宮藩の最後の藩主の長男だった。

 野営も悲惨だった。

〈風雪と寒気は昼間と変わらず、焼くに燃料なく食うに飯なし。わずかに各自が携行していた2~3食の糒と1~2個の餅、1個の牛肉缶詰があるだけ。しかし、餅は凍結し、缶詰は開ける物がないうえ、人の手を借りなければ口に入れることもできない者もあって、何かを食べた者はわずかだった。兵士は心身ともに衰弱し、視力も異常に。そばを歩いている戦友が、怪物が飛翔しているかのように感じた者も。

 午後9時ごろになり、人事不省となって昏倒する者が多く、死者20人余りが出た。興津(景敏)大尉も倒れた。部下の少尉、特務曹長のほか、兵士軽石三蔵(二等卒=二等兵)らが大尉を抱擁して終夜蘇生を図った。

 午後10時、山口少佐は将校の意見を集め、次のように決定した。「田茂木野方面に進めば、救援隊の援助を受けられる可能性があるし、木こりや猟師に出会うこともないとはいえない。暗夜に出発するのは危険。天明を待って出発することにしたい」〉

「検証 八甲田山雪中行軍遭難事件」は「ここにきて山口歩兵少佐も暴風雪下での夜間行軍は危険であるとようやく悟ったのだ」と書いている。興津大尉をめぐっては、後で事件の波紋として大きな意味を持ってくる。

 この第2露営地は最多の死者が出た場所となった。

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引用元:https://bunshun.jp/articles/-/68483,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]

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